アンディ・ラウとはそもそもどんな人物なのか。
独自にまとめたバイオグラフィーです。間違いがあればどうぞ指摘してくださいませm(__)m
劉家は広東省出身、祖父の代まで新界・大埔の泰亨村で農業を営んでいた。アンディは田畑や森で駆け回って遊ぶ、のびのびした幼年時代を過ごす。しかし父は農業に不満を感じ、家族を連れて九龍のスラム街で有名な鑽石山ダイヤモンド・ヘッドに引っ越した。アンディは小学校から帰ると父が経営する食堂を手伝い、日がな皿洗いや掃除に追われた。鶏モモ肉はおいそれと口に入らず、手羽先や爪ばかり。そんな貧しい生活が辛く、何とか運勢を変えようと、小4で自分の名前を徳華に改名したという。
食堂と自宅は鑽石山を度々襲った火事で焼けてしまい、やむなく一家は藍田に引っ越した。ちょうど反抗期だったアンディは、黄大仙にある仏教系の可立中学に入学させられた。ぽっちゃりしたいたずらっ子で、顕微鏡の覗く部分をマジックで真っ黒に塗り、覗いた人の目の回りが黒くするようにしたりした。腕白な同級生の間でも慕われ兄貴分としてリーダーシップを発揮、おかげで教師陣から目の仇にされ、マフィア予備軍の疑いをかけられ憤慨したこともあった。成績は中の上、物理が得意だったが中国史と英語が苦手だった。
中2のとき、学校の演劇サークルに参加。香港話劇団の公演に出演し、脚本を書くことに興味を持った。また中4で「Four友」という4人組バンドを結成し、コンテストに参加した。

1980年、中5(日本で言う高2)でテレビ局の脚本家を目指し、TVBの第10期訓練班を6人の友人たちと一緒に受験。17歳なのに18歳と偽って受験したとは、つい最近ばれちゃったこと。一人だけ見事に合格し、中学は中退。レオン・カーファイ梁家輝らと共に学んだ。81年に卒業後は、意に反して俳優としてTVBと専属契約。ウォン・カーワイ脚本の「彩雲曲」(82)のチョイ役で、スクリーン・デビューを飾る。またチョウ・ユンファ周潤發はアンディを高く評価し、当時は香港ニューウェーブの旗手として注目されていたアン・ホイ許鞍華ホイ監督の野心作「投奔怒海」(82)にアンディを推薦した。この映画が公開される前に、アンディはテレビドラマでブレイク。「望郷〜ボートピープル/投奔怒海」(82)では香港金像奨最優秀新人賞にノミネートを受けた。
当初はドラマでもチョウ・ユンファ周潤發の弟分役が多かったが、警察官ドラマ「猟鷹」(82〜83)の主演で人気上昇。トニー・レオンらTVBの若手男優5人で構成される「五虎将」のうちの一人として華々しく売り出された。同局ドラマプロデューサーから引っ張りだことなり、同じ金庸原作の「神[周鳥]侠侶」(83)の楊過役がさらに当たり役に。気難しい原作者にも「イメージにぴったりだ」と言わせた。トニーと共演の「鹿鼎記」(84)で康熙帝役を演じてさらに認められる。

だが映画界に進出する望みを抱いていたアンディは、専属5年契約の継続についてTVBともめ、85年から86年3月まで、13ヶ月ほど干されるという苦い思いを味わう。連続ドラマ主演は「天狼劫」(88)で打ち止め。85年に歌手デビューを果たしたが、アルバムは期待したほど売れなかったとか。当時海外のショーに出演したとき、現地のプロモーター関係者に「へえ、キミも歌うの。梁朝偉なら売れるかもしれないけど(TVBの後ろ盾のない)キミじゃあ、どうかねえ」と言われたことがあるそうだ。それでもくじけずにボイストレーニングを重ね、87年に再度アルバム「只知道此刻愛イ尓」を発表。
88年から歌唱活動に本腰を入れ、最歓迎香港・台湾男性歌手賞を初受賞。この年がアンディのブレイク年で、映画出演はひきもきらず、友人と共同でヘアーサロンを開店。公式ファンクラブ「華仔天地」も6月に設立された。90年に「可不可以」がヒット、音楽界での輝かしい受賞歴がここから始まる。91、92年度にはTVBの最歓迎男性歌手賞を連続受賞。93年に初の香港コロシアムコンサートを開催、連日大入り満員で見事成功させた。
だが当時映画界に進出してきた新興マフィアから、若手マネーメイキングスターとして目をつけられ、しきりに脅迫・出演強要を受ける。当時アンディが所属していたインパクト・フィルム芸能公司の代表者・張国忠は、4丁の拳銃を頭に突きつけられながらも脅迫に屈せず、アンディを守り抜いた。それでもアンディは1年に17本の映画に出演したこともあり、掛け持ち撮影はざらだった。1991年には米国ICMと契約、マネージメントを任せたりした。また94年に天幕電影製作有限公司を自ら設立、売れ線でなくとも良心的な作品作りを心がけるが、儲け主義に走りたがる他の幹部と対立。ある週刊誌が、天幕には借金が4千万香港ドルもあるとすっぱ抜いたこともあり、苦境に陥る。
アンディはやむなく友人に借金を申し込むが、すっぱりと1500万ドルを貸してくれたのは中国星のボス向華強の妻、陳嵐だけだった。アンディはその恩を忘れず、天幕の活動をいったん休止(倒産?)した後は、中国星の作品に主演を続ける。
97年の香港返還を巡り、芸能界がどうなるのか先行きが見えない不安から、アンディも弁護士のアドバイスに従い、92年にはカナダへの「投資移民」の資格を得た。しかし香港を愛する彼は結局、カナダでの生活は退屈そうだと、移民を断念したという。
商業作品スターの典型というイメージが災いしたか、90年代は香港電影金像奨の最優秀男優賞には不思議に縁がなかった。「無冠天王」などと揶揄された。しかし香港区域市政局が編纂した映画史の書物「香港電影八十年」には、チャウ・シンチー周星馳と並んで紹介されている。この本にはなぜか、トニーの名前はないのだった。
95年には「劉コ華慈善展覽館」を開設、個人博物館として話題を呼んだが、アジア経済不況の波で閉館を余儀なくされた。
天幕ではフルーツ・チャン陳果監督の「メイド・イン・ホンコン」(97)、「花火降る夏/去年煙花特別多」(99)を制作。アンディは「金は出すが口は挟まない、大いに宣伝してくれる理想的なプロデューサー」と陳果に称えられるプロデューサーだった。
2000年にIT時代の到来に着目、いちはやく
Andylau.comを立ち上げ。また念願の天幕電影製作有限公司の再興を果たした。2000年度の第19回香港電影金像奨で「暗戰・デッドエンド」(99)により、最優秀男優賞を初受賞。"無冠の帝王"の汚名を返上した。
しかし、2002年4月になって天幕電影製作有限公司の投資パートナーである通信会社「香港中建電訊」代表・麦紹棠とトラブルが勃発する。6月には決裂、天幕は全ての制作をストップさせた。「2001年分の出演料を払ってくれ」「出演契約に違反したのはそっちだ」と訴訟合戦となり、一時はアンディの出演禁止令を出すよう麥紹棠が求めたため「インファナル・アフェア」出演さえ危ぶまれた。
結局、「インファナル・アフェア」に出資したメディア・アジアの代表・林建岳の調停により、10月31日には双方が和解を発表。この問題には一応の決着がついた。
2003年1月にはレコード会社のEMIが設立した「加際星藝高校」の訓導主任に就任。天幕のマネージメント部門で「インファナル・アフェア」の林家棟をマネージメントするなど、人材養成にも余念がない。まさに香港芸能界を背負って立つ主要人物の一人である。
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