小説版The
Name
プロローグ
3年前。ソウルの下町、夜明け前。
人影のない路地を駆け抜ける、1人の男の姿があった。
激しい息遣いが、路地にこだまする。
ブラックスーツ姿の男は、両腕に女を抱いていた。
黒いドレスの女は、ぐったりと頭を男にもたせかけていた。長い艶やかなストレートヘアが、闇に引っ張られるように広がり揺れた。
男は時折り、彼女の青白い顔に目を落とす。
追っ手の姿は、まだ見えない。
(奴らに嗅がされたクスリを、何とか解毒しなければ)
男は女の乱れた前髪を、指先で払った。そっとささやいた。
「朝まで待つんだ。朝まで持ちこたえたら、きっと」
きっと、逃げ切れる。
その前に現われたのは、男の弟分だった。
孤児で、奴らの下っ端として賭場でこき使われ、借金取り立てに失敗して仕置きを受けながらも、懸命に自分の居場所を確保しようとあがいている、まだ20歳にもならない若者の一人。
壁に身をもたせかけた女が、二人の口論の声に意識を取り戻し、うっすらと目を開いた。
獣のようなうなりを上げて、若者は男を突き飛ばした。
歪んだその表情は、嫉妬か。ひたむきな思慕を裏切られた男の怒りか。他の連中に見つかってなぶり殺されるぐらいなら、この自分が体を張って止めるべきだと義務感にかられているのか。
死に物狂いで殴り合う、昨日までの義兄弟。
女は絶望にかられ、再び目を閉じた。
死んでもいい。いっそ、彼ら二人の手で殺してほしいと念じた。
男と引き離され、無慈悲な奴らの手に、暗闇の底へと戻されるくらいなら…。