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小説版The Name

最終章:別 離


 その夜、とうとう男は戻らなかった。
 大金が手に入ったんだ、もうどこへでも行ける。女だって幾らでも買える。兄貴は二度と戻らないかもしれない、と若者は首をすくめた。
 少女はその夜初めて、若者に抱かれた。
 性急な愛の営みは、苦痛の方が勝った。少女は天井を仰いで耐えた。
 あの男なら、と少女はふと夢見た。
 あの長い指が、どんなふうに自分を扱うだろう。どんなふうに愛撫してくれるんだろう。どんな快感をもたらすのだろう。
 若者のようでは、こんなふうでは、決してないだろう…。

 翌朝。二人は国鉄のウンボン(鷹峰)駅に来ていた。
 「自由だ。俺たちはもう、どこにだって行けるんだ」
 若者は列車の切符を買うとき、嬉しげにそうつぶやいた。
 少女は化粧を落とし、キャップを目深にかぶって、いつものように少年めいた服装に戻っていた。
 ありのままの自分でいたかった。自分は何一つ変わっていないと、変わらなかったと思いたかった。
 列車に乗りこみ、二人で向かい合って座ったとき、少女は確かめるように、二人分の現金の入ったスーツケースを開けた。
 何故か、1枚の写真が札束の上にあった。二人の男にはさまれ、女が笑っていた。
 最初は自分たち三人の写真だと思った。酔った勢いで、昨夜誰かに撮影してもらったのだろうか。
 だが写真の端は傷み、変色し、明らかに古い写真だった。
 少女の脳裏に、初めて男と出会った日の記憶がフラッシュを焚くように蘇った。
 彼女を捕まえておきながら、財布を取り戻さずに、彼が取り戻した紙片は…。
 写真だ。この写真。
 写っているのは、自分ではない。
 少女は全てを理解した。
 スーツケースを閉め、若者に押し付け、立ち上がった。
 微笑んで男が「化粧をしろ、これを着ろ、ウィッグをかぶれ」と準備してくれたのは、写真の女に化けさせるためだ。
 カジノの連中が頭を下げたのは、写真の女に対してだったのだ。
 写真の女は実在するのだ。
 そして男が戻って来なかったのは。若者のジェラシーや不安を汲んで身を引いただけではなく。


 いてもたってもいられなかった。
 あの女を知っていながら、自分に何も打ち明けてくれなかった、若者さえ憎くなった。
 嗚咽をこらえ、列車を飛び降りて走り出した。
 若者は、後を追っては来なかった。
 気弱に空席を見やり、黙って席に座ったままだった。
 ほんの少し、自嘲の笑いを浮かべた。
 列車が動き出し、スピードを上げると、若者は席を立って窓から身を乗り出した。そして思い出の写真を指の間から飛ばした。

 いつもいつも、自分はこうやって大切なものを失っても、笑ってあきらめるしかないのか。
 一しきり笑ってから、なぜだか心の上にのしかかっていた重い石が、外れたような気にもなった。
 もうあの女に生き写しの少女を見るたび、遠い苦い記憶に悩まされることはない。
 何もかも自分より勝る男に、愛する者を奪われると怯える必要もない。
 本当に、過去から解放されて、自由なのだ。
 (でもさ、でも…自由って、こんなに淋しいものだったのかなあ)
 若者は煙草をくわえながら、また笑った。
 男がよく浮かべた笑顔に、どこか似ていた。

 少女は夢中で、聖水洞の街を走り続けた。
 カジノのある倉庫街までたどり着くと、倉庫の一つの前に黒塗りのベンツが停まり、周囲に黒スーツの集団がたむろしていた。あのストレートヘアの女の白い横顔が、視野をよぎった。黒いサングラスをかけていたが、確かにそれは写真の女だった。
 黒スーツの男の一人が、少女の行く手をさえぎった。女はベンツに乗り込もうとしていた。
 「待って!」少女は夢中で声をかけた。「あの人はどこ? あの人に会わせて!」
 女は動きを止め、静かにサングラスを外した。
 少女は息を呑んだ。本当に、自分に似ていた。紅を引き、眉を描き、美しく着飾ったあのときの自分に。
 女も、少女がカジノに乗り込んだ自分の偽者だと気づいたらしい。
 「あの人? あの人って、誰? 名前は?」
 落ち着き払ってそう問いかけてきた。
 (名前?)
 少女は絶句した。
 若者はいつも「兄貴」と呼び、少女は「あんた」と呼んでいた。
 あの男は、名前さえ教えようとはしなかった…。
 
 勝ち誇ったような笑みを浮かべ、女はベンツに乗り込んだ。
 (そうなの? 私は男たちにとって、彼女の代用品に過ぎなかったの? だからあの人は、何も言わずに…?)
 自分の顔を撫でながら、少女は心の中でつぶやいた。
 ベンツの窓がするすると開いた。白い腕が伸び、窓の外にライターをかざした。
 ライターには、見事な龍の浮き彫りが施されていた。少女にも見覚えのあるライターだった。龍は、男と若者が彫った刺青と、同じ姿をしていた。
 腕は無造作に、ライターを路面に投げ捨てた。少女の足元で、ライターが乾いた音を立てた。
 少女はライターを拾い上げた。黒スーツの男たちは、三々五々去っていった。誰も、少女に向かって男の行方を告げようとする者はいなかった。だが少女にはわかっていた。
 二度と、男に会えないのだ、と。
 彼は若者と自分を守り、逃がすために、黙って惨たらしい死を迎えたのだと。
 少女はこらえきれず嗚咽した。
 せめて、あの男の名前を、いまこそ大声で呼びたかったのに。


 誰よりも、心の底から呼びたい名前…。
 いくら呼んでも、もう決して届かない名前…。

 いっそ、いますぐあの人に、私が、俺が、なれたなら……。

註:次は蛇足のエピローグです。ミュージックビデオはここで終わっています。
 

 


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