小説版The
Name
第三章:トリック
翌日。
若者が姿を消した。
少女も男も、行き先を聞いてはいなかった。
ただ若者の一張羅のブラックスーツと、男の持ち込んだスーツケースが消えていた。
男はきっぱりと少女に言った。
「行き先はわかってる。倉庫街の地下カジノだ」
その街でヤバイことに手を染めている者なら、組織が牛耳る地下カジノの場所を知らないはずはない。うっかり近寄らないのが得策だからだ。
すぐにも後を追おうとした少女を、男が止めた。
「あせるな。まずは着替えろ。化粧も入念にするんだ」
少女は驚いた。男は魔法のように、トランクから赤いミニドレスやアクセサリー、ロングのストレートヘアのウィッグまで用意して与えてくれたからだ。
「カツラぁ?」
尻込みする少女に、男が勧めた。「大人っぽく変装しなきゃ、中には入れてもらえないぞ」
若者は地下カジノの前で、入念なボディーチェックを受けていた。
眼光の鋭い若手幹部が、疑わしそうに若者を見つめた。若者は平然と、スーツケースの中を見せた。男も提供したなけなしの資金が、入っていた。
若者はカジノへの参加を許された。倉庫の鉄扉に開けられた小さな扉を、くぐった。
カジノといっても、外国人向けに設けられているシェラトンホテルのウォーカーヒルカジノほどきらびやかでもゴージャスでもない。扉や壁は音楽スタジオ並みの厚い防音設備が施され、歓声も悲鳴も、外には一切漏れない。
照明は最小限に抑えられている。着飾った若い女もいない。紫煙であたりが霞んで見える。
たむろする男たちは、みな一癖も二癖もある連中だ。負ければ地獄へまっさかさまだろう。
ゲームが、始まった。若者が一人では経験したことのない、厳しい真剣勝負だった。欲望に目をぎらつかせた男たちが、獲物に食いつかんばかりの勢いで、大金を張っていった。
少女の部屋のドアが開き、男は振り向いた。男も伊達なジャケットを着込んでいた。
赤いミニドレスの女が、立っていた。
女は艶然と微笑み、優雅な足取りで近づいてきた。
信じられない思いで、男は女を見つめた。
さわれば消える幻ではないかと恐れるかのように、男は女の髪に指先でそっと触れようとした。
「似合う、かなあ?」
少女が頬を赤らめ、深いスリットの入ったドレスの裾を引っ張り、照れて笑った。
その甘えた声に、男にかかった魔法は、解けた。
若者はツキにツイていた。
いくらでも、チップが若者の前に集まってきた。
手放しに喜ぶ若者を、周囲のギャンブラーらが苦々しげに見つめていた。
男と少女は、地下カジノの前まで来ていた。
男がボディーチェックを受けながら、ちらりと少女に目配せした。
少女は怯えていた。(冷静に、冷静に、堂々としてなきゃ)と自分に言い聞かせても、おどおどせずにはいられなかった。
「あっ、姐御!」
幹部がハッとしたように少女の前に進み出て、深々と頭を下げた。
「まさか今日、来ていただけるとは。何の連絡も受けていなかったので、失礼いたしました」
少女は声も出せず、つられて頭を下げかけた。
カジノでは、チップが宙を舞い、怒号が渦巻いていた。
つるし上げられているのは、若者だった。
「イカサマに決まってるだろう、このガキ!」
「調子に乗るな、バカヤロウ! 生きて帰れるとは思うな!」
泣きべそをかいた若者の頭が、テーブルに打ち付けられる。
カジノの防音扉が、音を立てて開いた。
男が、入ってきたのだ。
「そいつは俺の弟分だ、ギャンブラーとして修業中の身でな」
3年前まで飛ぶ鳥を落とす勢いのギャンブラーだった男の言葉よりも、その背後に現われた美しい女の姿に、カジノの男たちは息を呑み、動きを止めた。
「姐さん、お久しぶりです!」
口々に男たちは挨拶した。
少女はただ、うなずくのが精一杯だった。
若者は男に抱きつき、意気揚々とチップをかき集めた。
「コイツの腕はまだ未熟で、イカサマなんかやれる器量じゃない。今日のところは本当にツイていたんだろう。あんたらも、姐御の顔を潰すわけにはいかないだろう。ここは黙って、支払ってやってくれ」
男の言葉に、カジノの連中は不気味に沈黙した。
少女と男に肩を抱かれるようにして、若者はカジノを脱出した。
夜の道路を、3人の車はひた走った。チップは現金に換え、3等分したばかりだ。
3人とも緊張の後の、異常な興奮状態に陥っていた。
若者は換金した額の大きさに浮かれ、笑ってばかりいた。
後部座席に座り、運転席の男に腕を巻きつけたまま、少女はポケットボトルのウイスキーを若者に飲ませ、自分もあおった。
若者は奇声を上げ、時には助手席から身を乗り出して両腕を振り上げた。
少女と男が、若者のジャケットの裾をつかんで二人がかりで引き戻した。
運転する男さえ、笑いのはてに若者に強引にキスして少女に「前を見て運転してよ!」と金切り声を上げさせた。
いったん着替えた3人は、真夜中のバーになだれ込んだ。少女はもうウィッグを外していた。普段はとても飲めない高級酒やカクテルを注文し、乾杯した。笑い合い、グラスを重ねた。
酔った少女は、男の口に優しくナッツをくわえさせた。
何の気なしにしたことだったのに、ふと若者が眉を曇らせ、沈黙した。
男が(何でもないさ)というように、若者に優しい視線を向けた。
若者はその視線を強くはね返した。
呆れた、とばかりに少女は若者を見つめた。
男がすっと立ち上がり、店を出て行った。
気まずさが、若者と少女の間を覆った。
少女が若者に視線を向けると、若者が真顔で、彼女を見つめていた。
「明日、この街を出よう。二人で」
……二人で?
少女の視線が、とまどいに揺れた。
店を出た男は、何かに引き寄せられるように路地へと向かった。
見覚えのある看板。見覚えのある、街角。
寂れてはいるが、間違いなく愛する女を胸に抱き、必死の思いで駆け抜けた、あの路地だ。
路地の向こうから、黒い影が幾つも湧き出た。
手に角材や棍棒を持った、屈強な男たちだった。
あの逃避行が若者に阻止され失敗した後、男を痛めつけ、女を取り返していった者たちと同じように。
男は悠然と、煙草をくわえた。
その黒い影から、1つの人影がすっと抜け出して実体化した。
ひときわ小柄なそれは、黒いドレス姿のあの女だった。
今度こそ、見間違えようはずもない。
男はにっこりと笑った。
とうとう、自分の前に引っ張り出した。そう思った。
黒いドレスの女は、煙草の煙を静かに吐いた。表情のない厚化粧は、人形のように生気がなかった。
「今夜、この私があんたとカジノに現われた、イカサマを働いた若造を助け出して出て行ったって聞いたけれど」
男は自分がくわえている煙草に手をやった。ライターで、火を点けた。
「ありえないことよね。私はあんたなんか、全然知らないんだもの。稚拙なトリックに私の部下が騙されるなんて。このシマじゃ、よそ者の勝手を許すわけにはいかない」
女は唇の端に冷たい笑みを残したまま、身を翻した。
なぜか男の脳裏に、少女の面影がよぎった。
怒り、笑い、叫び、泣いた、野生の仔鹿のように生命力に満ちた少女が、奉られることにすっかり慣れたこの女に似ていると、なぜ思ったのだろう。
なぜ遠い追憶のために、無邪気な思慕を利用することが、できたのだろう。
(…幹部の娘だというだけ。私には何の力もない。あの連中は、私を人形のようにしか思っていないの)
怯えて男の腕の中で泣きじゃくっていた女が、裏切り者として連れ戻された女が、3年でどうやって連中を従え、人心を掌握し、組織から地下カジノを任されたのか。
中傷に近い噂なら、ごまんと耳に入っていた。
男は笑った。自嘲の笑いか、変わり果てた女を憐れむ笑いか。
男自身にもわからなかった。
影の群れが少しのためらいもなく、一斉に男に襲いかかった。
まだ長い煙草が、男の唇から落ちた。
火がついたままのライターも、地面に転がった……。