小説版The
Name
第二章:嵐の前の静けさ
若者に「もう組織は抜けた、いまはフリーターだ」と聞いて、男はどこか安堵したようだった。
いつのまにか、男は若者と少女と同居することになっていた。
ささやかな夕食後、男は一そろいのカードを取り出した。
「折られた腕はもう、大丈夫なのか」と若者は男に尋ねた。
「ああ、もう昔と変わらない」
鮮やかな手つきでカードをさばき、男は絶妙ないかさまのテクニックを披露した。
「兄貴の腕は、少しもにぶっちゃいねえなあ」
若者が少し、遠い目をした。少女は無心に、憧憬のまなざしを男に向けた。
その日から、若者は熱心にポーカーやブラックジャック、バカラのテクニックを男から学び始めた。3人は行動を共にすることが増えた。おそろいのレイバンをかけ、くわえ煙草で、下町のゲームセンターにも足を運んだ。下町の老女から、アイスキャンデーも買って食べた。
少女は仔猫のように無邪気に、男と若者の間を浮遊した。時折、男との間に微妙な感情が通じるのを肌で感じていた。
それを、若者が気づいていたかどうか。彼はスリの腕を上げ、少女とのコンビで3人分の食費を難なくまかなえるほどになった。
ある夜。いつものようにカードで手慰みを続ける男のそばで、若者は掏り取った財布から現金を掻き集め、総計を数え出した。
「足りねえ。全然足りねえな。一発大勝負に出る元手にするには、ほど遠いや」
若者は腐ってベッドに寝転んだ。男は微笑んだ。「あせるな。あせりは何も生み出さないよ」
だがその言葉は、生き急ぐ若者には通じなかった。
「男なら誰だって、一度は勝負して、一かばちか人生の一発大逆転を狙いたいものじゃねえか。こんなしけた生活、いつまでもやってられねえよ」
男は黙った。若者はかつての自分そのものだった。恋を知り、愛した女のために、女と共に過ごす満ち足りた日々を手に入れたいために、一発大逆転を狙って失敗した自分。その結果は、あまりに惨いものだった…。
だがギャンブラーであることを選んだ人間にとって、一かばちかの大勝負を狙う野心は止められない。
狼は生きる、豚は死ぬ。それが鉄則なのだ。
隣室で、少女は買ってきたばかりのAmoreの化粧品を試していた。
スリの実入りが結構よかったので、思い切って化粧に挑戦することにしたのだ。普段は口紅にもファンデーションにも、見向きもしなかったのに。
(あたしだって、女なんだもん。アイツにちゃんと認めさせなきゃ。キレイだって、一度ぐらい言わせなきゃ)
入念におしろいをはたき、眉を描き、唇を赤く染め、頬紅を挿し、アイシャドーをなすりつける。
(できた!)
男二人の寝室の戸口に立ち、顔を隠していた手をさっと払いのけた。
「ジャーーーン! どう?」
驚いて彼女を見つめていた若者が、なぜか顔色を変え、一瞬男を見やった。
「…ヘンに色気づきやがって。全然似合わねえよ、みっともねえことするな!」
彼は吐き捨てるようにそう言うと、少女を押しのけ、外へ飛び出して行った。
男は、何も言わなかった。ただ視線を逸らした。
少女はそっと唇を拭った。その目が涙で潤んだ。
屋上にたたずみ、若者は苦しげに天を仰いだ。
(兄貴は、まだ忘れてない。俺だって、忘れられない。忘れられるもんか…!)
ほの白い面影は、夜の闇に半ば溶け込み、ひっそりと、そこに在る。
少年と見間違うほど飾り気がなく無邪気で、異性だと意識させなかった少女が、なぜ、誰のために急激に変貌を遂げたのか、わからない若者ではなかった。あの男にはそういう変貌を女にもたらす、一種の磁力があるのだから。
あの夜、扉の隙間からのぞき見た、男女の濃密な抱擁。
決して鉄砲玉の自分には見せなかった、あの女の悩ましい媚態。
愛撫されながら、男が自分に向けてきた、翳りに満ちた視線。
辛い記憶の何もかもが、満天の星空を背景に、鮮烈に蘇った。
愛されなかった自分。取り残された自分。裏切られた思いで、去った二人を追った自分。
二人を殺したいとさえ願った、あの夜の激しい憤り。
「畜生!」
やりきれなさに煙草を投げ捨てたとき、男が若者に歩み寄って来た。
もうあの暗い翳りは、その瞳になかった。
むしろ若者の方が、屈託を秘めた鋭い視線を男に向けた。
男は黙って、カードを差し出した。
スペードの、エース。
仕掛ける合図だ。一世一代の勝負を、共に仕掛ける。
若者は苦笑いを浮かべた。
男は若者の肩を抱き、家に入った。
何も解決したわけではなかった。
むしろ何かが、音を立てて崩れ落ちていこうとしていた。