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小説版The Name

第一章:めぐり逢い


 ソウルの地下鉄(チハチョル)は、中心部の環状線を中心に東西南北の都市に向けて、放射状に整備されている。料金は600ウォン(60円)、700ウォン(70円)の2種類だけ。車内で物売りに励む行商人や夕刊売りもいるし、募金集めの身体障害者も乗ってくる。
 地下鉄2号線。
 その日の車内は、行商も募金集めもできないほど混雑していた。
 駅に着くたび、さえぎる人を押しのけて出口に急ぐ人々と、押し返す人のささやかな小競り合いの波が立つ。
 痩せぎすの少女は、その波にまぎれて何気なく、車内の真ん中を移動していた。
 ノースリーブのTシャツ、グレーのジーンズ、ショルダーポーチ。あまり手入れされていないショートウルフの髪。化粧っ気のない顔立ち。
 両サイドの人々の後姿に、きつめの視線を素早く走らせる。それも、男性ならお尻のポケット部分、女性ならショルダーバッグやハンドバッグの位置に。
 そう、彼女はスリだった。
 始めたのは10歳頃から。ベテランのじいさんに泣きつき食い下がり、手取り足取り教わった。簡単にはカモに気取られない自信があった。
 赤い薔薇の花のような柄の派手なシャツを着た優男に、彼女は目をつけた。あの体格なら、失敗して捕まえられたとしても、逆襲して逃げ切れそうだ。さりげなく、揺れに合わせて体を傾け、腕を一閃させた。
 尻ポケットから札入れを抜き取ったその手が、誰かにつかまれた。
 札入れの主だった。左の耳の脇に、Wに似たかたちの蛇の刺青があった。
 男は少女を引き戻し、彼女の顔をひたと見すえた。
 半ば顔を隠すような長い前髪、ひげ面、底なしに暗い瞳。
 男はふと、驚きをそのまなざしににじませた。
 (な、何なのさ!)
 少女は手を振り払い、昂然と顎を上げて、駅に降りようとした。
 男はホームにまで、彼女を追ってきた。彼女を壁に押し付け、逃げられないよう首の両側に腕を突いた。外国女性雑誌マリ・クレールの広告板の灯が、男の顔を青白く染めて浮かび上がらせた。
 (殴られる…それとも?)
 少女の表情が、怯えに変わった。男は接吻寸前のところまで、少女に顔を近づけた。だが彼が次に取った行動は、少女がまるで予想しなかったものだった。
 男はいとおしげに、少し悲しげに彼女の髪を、頬をなでたのだ。
 混乱した少女は、腕の中からすり抜けて逃げようとした。男はそれを阻んだ。彼は少女を引き戻し、少女がしっかりと握った自分の財布から1枚の紙片を取り出して、口にくわえた。そして彼女を押さえつけていた腕を放し、背を向けてあっさりと去っていった。
 少女は自分の胸にそっと手を置いた。激しい鼓動は、動揺や恐怖のせいだけではなかった。初めて感じる、熱いときめきにも似たものだった。

 ソウル特別市城東区聖水洞。GMコリア本社や聖水女子中学があり、建国大学も近いが、基本的には半導体組立、配線器具製造などの工場の街だ。
 下町のごみごみした一角に、その雑居ビルはあった。

 貧しい一家が階下にひしめいて暮らしている。妻に暴力を振るう夫、酒びたりの妻、学校をサボり、盗みを働いて胃袋を満たすしかない子どもたち。
 70年代で時が止まったような古びた調度品。破れかけのカーテン。旧式テレビの、いびつなスピーカーが割れた音を部屋の外まで撒き散らす。

 少女が飽き飽きするほど、見慣れてきたものばかりだ。

 少女は不機嫌な顔で、階段を上り詰めた。
 最上階から、さらにコンクリートの狭い階段を上ると、そこが屋上だった。
 洗濯物のシャツやシーツがはためく屋上に、若者が今日もいた。寝癖のついたままの頭で、ぎしぎしと揺れる古びた椅子に座り、遅い昼食を食っていた。気のいいだけが取り得の男だった。少女は一瞥もくれず、その前を通り過ぎた。
 屋上の貯水槽の横に、屋上屋とでもいうのか倉庫を改造した、殺風景な住居スペースが設けられている。もちろんビルの持ち主に黙っての不法占拠だ。
 少女はその中に入り、いちばん奥の部屋に飛び込むとドアを乱暴に閉めた。
 若者はあり合わせで作ったクッパの鍋を持って、扉の前に立った。
 「面会謝絶! 飯なんか要らないよ!」
 少女の尖った声に、若者は首をすくめた。スリが不首尾に終わったのだろうと見当をつけた。

 少女は粗末なベッドに寝転がり、仰向けになると、財布を取り出した。
 あの男が何故か、取り戻そうとしなかった札入れだ。
 クレジットカードや酒場の会員証が数枚と、現金だけ。運転免許証もない。アルファベットでカードに刻まれた複数の名前のどれが、あの不思議な男の本名なのか、わからない。
(どうしてこんなに気になるんだろ、あんなふざけた野郎のことが)
 少女は繰り返し、自分の瞳を覗き込んできたときのあの男の目を思い返していた。
 ひんやりしているようで、激しい。きついようで、どこか切ない。
 あんな目で自分を見据えた人間は、今までにいなかったと思った。


 翌日。

 同じ2号線の地下鉄に、少女と若者が乗り込んでいた。今日も車内は満員に近い。
 少女の方がスリとしては先輩だ。いつものように二人並んで吊り革に捕まり、少女が隣のカモから財布をすって背中越しに若者に渡し、若者は財布をしまいこむという戦法を取った。
 背中に回した二人の手が触れようとしたそのとき。電車が揺れ、1本の手が割り込んできた。
 少女がよろめき、若者がかろうじて彼女を支える。
 すったばかりの財布が、なかった。若者がジェスチャーで(持ってないぜ?)と両手を上げる。
 人垣の向こうで、くすっと笑う気配がした。
 財布を落としたのか、と床を探していた少女は、ふと顔を上げて車外を見た。
 そこはハニャンデ(漢陽大)という駅だった。
 あの男が、いた。
 サングラスをかけていたが、確かにあの男だった。右手に財布を握って掲げ、左手で彼女らを指さして、おかしそうに笑っていた。
 信じられない、と男を見つめる少女の背後で、若者が大声を上げた。
 「あーーー! まさか、まさか!」
 車両の扉が、ぴしゃりと閉まった。
 閉まる寸前、男が少女に財布を投げてよこした。見ると、すったはずの財布ではなく若者の財布だった。
 男が手を振る。車両は離れていく。
 少女は拳で扉を叩いた。訳もなく、悔しかった。
 若者に怒鳴った。「次の駅で降りて、すぐ引っ返すよっ!」
 若者は妙に浮かれていた。喜んで少女の後についてきた。
 (何なのよ、この能天気男!)と、余計に腹が立った。

 なぜか、男はハニャンデ駅のホームで、煙草を吸いながら立っていた。
 少女は男の前に詰め寄った。男は手に財布を持ったままだった。「やあ」と声をかけて来さえした。
 「何なんだよあんた、いったい!」
 叫びながら、胸を突いた。男は平然と、薄ら笑いを浮かべた。
 少女は怒りに任せて彼の頬を張った。追いついた若者が、さすがに割って入った。
 「何だあ、やっぱり兄貴じゃねえか!」
 若者は屈託なく、男に抱きついた。「生きてたのか、おまえ」男も笑って、若者の背を優しく叩いた。
 (どういうこと? こいつら、知り合い? 何でこんなに親しげなの? 私だけが、部外者ってわけ?)
 ますます怒りが込み上げてきた。

 少女はそれ以上スリを続ける気も起こらず、まっすぐに自分のねぐらに戻った。
 ドアをノックし、少女の名を呼んだのは、若者だった。
 「何よもう、しつこい!」
 ドアを開けた少女は、信じられない思いで若者と並ぶ男の姿を睨んだ。
 男は「やあ」と手を軽く上げ、平然と笑いかけてきた。
 少女は唇を曲げ、ドアをぴしゃりと閉めた。
 「あーあもう、へそを曲げたらどうしようもないんだから」
 「そういうな、からかいすぎた俺が悪かった」
 若者と男の嬉しげな声が、扉越しに聞こえてきた。
 あんなに腹を立てていたはずなのに、自分も何だかうれしくなって、少女はいつのまにか笑みを浮かべていた。

 

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