トニー・レオンの生い立ち02


トニーの初恋

 トニーの初恋は10歳のとき。クラスメイトの女の子が好きにマイムマイム…かな?「糸巻き巻き…」?…同世代だ。なった。学校でいちばん可愛いと「僕が決めた」女の子。トニーは放課後になると自転車に乗って彼女の家のあたりまでギコギコ漕いで行き、彼女の姿を追い求めた。だが彼女が出て来ると、トニーは一目見るだけで幸せな気分でいっぱいになって、さっさと家路についた。
  とうとう恋心を言い出せないまま、彼女は転校して行った。20年後、トニーは同級生に聞かされる。「何だ、知らなかったの? あの子もおまえのことを好きだったのに」。いまさら知っても仕方のない、淡く温かい思い…。彼女はもう結婚して子供もいるそうだ。だがトニーは当時の思い出をそのままにしておきたくて、会うことは考えないそうだ。
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そのころ、アンディ・ラウ劉徳華は…

 トニーは当時、オリンピックで活躍していたルーマニアの体操選手ナディア・コマネチにも憧れた。トニーはコマネチのポスターをベッドサイドに飾り、ファンレターを書いて彼女のサイン入りプロマイドを手に入れたという。
 「彼女はどの角度から見ても完全な美少女だったよ」。トニーは言う。「もしも当時、彼女が僕の目の前に現れたら、2人の距離が0.1メートルあろうとなかろうと、僕は彼女を愛してるって認めたよ!」…さいですか。
  「実際は彼女は完全な美女というわけじゃなかった。でも彼女はいつも演技に集中し、全力で打ち込んでいたんだ」。トニーはそういう女性を好む。「彼女たちが全身全霊を傾けているとき、それが彼女らの最も美しい時なんだよ」。

 幸い、トニーは成績がよく、無事小学校を卒業できた。中学は祖父の家に近い尖沙咀の「地利亞修女紀念学校」に進学した。UFOのクラウディー・チョン鍾珍小姐も通った私立の英文中学で、元は女学校だったせいか、女生徒が男子生徒より多かったという。トニーは思春期から、女性に囲まれる暮らしに慣れていたというわけだ。

 トニーの”初体験”は、何とこの中学時代。14歳で初めて勇気を奮って告白した相手だった。香港では未成年者との不純異性交際はもちろん"淫行"。 「相手は年上(ただし同じ中学生…中高一貫教育だから日本でいう高校生)の女の子だから、犯罪じゃないよ」と涼しい顔で言うトニー。早熟というか、可愛い顔してやるときゃやる!トニーである。
 当時のトニーが深い影響を受けたのは、母の弟、つまり叔父だった。トニーの母には兄弟が多く、一番下の弟は、トニーより5〜6歳年上だった。トニーは成人してからこう述懐する。「彼は僕の兄のような人で、また父親代わりでもあった。休みの時や宿題がない時は、ほとんど一緒にいた。今までの僕の人生観などに、彼の影響を大きく受けた。彼も他界してしまった。現在でも懐かしく、尊敬している」と。


音楽との出会い


 中学1、2年生のころ、トニーが愛したのは音楽だった。ピアノを習いたかったが、母子家庭の経済状態が贅沢を許さない。仕方なく、トニーは安物のギターを買って、家の中で弾き語りを楽しんだ。

サミュエル・ホイ許冠傑 当時の彼が好きだったのは、アメリカのブルースだ。経済が高度成長を遂げた70年代香港では、サミュエル・ホイ許冠傑がビートルズのコピーのようなバンド「ザ・ロータス蓮花楽隊」を組み、兄のマイケル・ホイ許冠文と一緒にレギュラーテレビ番組「雙星報喜」を持ち、オピニオン・リーダーとして欧米文化に香港の若者の目を向けさせていた。トニーもまた、貧しい広州からの移民の子どもから努力して身を立て、香港大学に入学するほどのエリートでアイドルとなったサミュエルに憧れ、自由でのびやかな欧米カルチャーに夢を馳せていた。トニーは中学時代、サミュエルと同じようなマッシュルームカットにしていたという。長髪にしたいのではなく、サミュエルに成りきりたかったのだ。

 「彼が英語曲を歌っていた時代に、僕は彼をアイドル視していたな。当時の彼の名曲は『STREET OF LONDON』『A SPACEMAN CAME TRAVECCING』『HOTEL CALIFORNIA』なんかだったよ」。その後、サミュエルはシンガーソングライターとして、それまで「ダサイ」と思われていた広東語で歌うようになり、兄と共に香港で広東語サブカルチャーを花開かせる。「彼が歌った代表的な曲は、僕も口ずさんでいたよ。彼の影響で、僕も広東語の曲を受け入れるようになったんだ」。

 いつか父親の目が覚めて家に戻ってくれて、博打から足を洗ってまっとうに働き出せば、そうすれば…トニーはいつも外国留学を夢見ていた。英語が得意で、英語朗読班の班長を務めてもいた(語学に強いのはその頃の勉強のたまものかもしれない)。弁論大会ではチームリーダーを務め、ディベートでいつも勝っていたというから、本来は弁が立つのだ。米国に留学し、法律を学び、弁護士になれれば高収入のエリートになれ、母の苦労が報われる。自分が培ってきた、人一倍強い正義感も満たされる。トニーはそう夢見ていたのだ。親族も「一生懸命勉強しろよ」と励ましてくれていた。

 トニーが最初に経験した仕事は、夏休みの配達のアルバイトだった。叔母が世話した、スーパーマーケットから香港駐屯の英国軍人の宿舎への食品配達の仕事だ。ソーダやコーラ、缶詰、パンや馬鈴薯などを、少年は懸命に運んで家計を助けた。


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 中学5年生で、成績優秀なトニーは飛び級を許され、他人より1年早く卒業資格を与えられた。だがその頃、家を出たままの父親は死んだと聞かされた。トニーの留学希望を聞かされた母は思案にあまり、親族会議にかける。だが祖父や叔父は、身を粉にして働いてきた旧世代。トニーの外国留学は贅沢だとして許さなかった。仕方のないこととはいえ、トニーは母親に対して深い失望を覚えた。父と母を兼ねてきたしっかり者の母親も、万能ではないと悟ったのだ。また親族に対しては(あんなに勉強しろ、しろと言ってたのに、いざとなったら助けてくれないのか)と、怒りさえ覚えた。

 それなら、今まで働き詰めで自分たちを養ってくれた母親に楽をさせたい。彼は就職を決心した。トニーはデパートの販売員、電器店の販売員と職を転々とする…まだ15、6歳の少年を見こんで本気で仕込もうとする人にはめぐり会えず、トニーはよりよい給料を求めて3年余り転職を繰り返した。その頃の記憶は曖昧だとトニーは言う。とにかく商品の価格を覚えるだけで精一杯。思考停止の状態で辛い日々をやり過ごしていたのだ。
 同じような状況に置かれて貧しい親や社会を恨み、ひねくれ、非行に走った若者もいるはずだ。だがトニーはグレることなど少しも考えなかった。