トニー・レオンの生い立ち その1

香港雑誌「蛍幕偶像」25号(1987年)表紙。
多くのテレビ・電影スターを紹介してきた「螢幕偶像」
第25号表紙(1987年発行)


應子謙に扮した偉仔。
應子謙に扮して

20 歳 の 序 章

 82年10月。
 香港のテレビガイド雑誌「螢幕偶像」の編集者は面食らった。彼らは(あまり儲からない)雑誌発行の傍ら、スターのプロマイド売りにも精を出していたのだが、そのプロマイド販売店にすっ飛んで来た少女がこう聞いたのだ。
 「いまTVBでやってる連続ドラマ『香城浪子』で、”イン・チーヒム應子謙”を演じている梁朝偉の写真はありませんか? ここならあるんじゃないかと思って」
 「へ? それって誰?」
 「知らないんですか? 正直でとっても善良な青年役なんです」。
 他の少女たちが口々に言った。
 「梁朝偉っていえば、子供番組の【四三〇穿梭機】で司会進行役をやってるわよね」「そうそう、とっても活発でイタズラ好きな男の子よ」。
 編集者はこうして梁朝偉に注目するようになった。それは決して遅くはなかった。トニーはその年の夏にTVBの第11期芸員訓練班を卒業し、テレビに出るようになったばかりだったからだ。多くの香港人は、まだ彼の名前も顔も知らないでいた。ただ10歳前後の子供たちと、ハンサムに目のない少女たちが憧れ始めていたに過ぎない。香港人の多くが彼の名前を知り、注目するようになるのは2年先のことだ。

 梁朝偉。後にトニー・レオンとして日本に、世界の映画人に注目を浴びることになる彼は、このとき20歳。演技者としての道がやっと切り開かれたばかりだった。

幼児〜小学校時代

 トニー・レオン梁朝偉が生まれたのは香港。日本の発行物または英文書には中国広東省と書かれることもあるが、これは華人が大切にしている「籍貫」というものと混同しているから。「籍貫」は先祖がどこの出身か、ルーツはどこかを示すもので、本人の出生地とは異なるのだ。

 一家は尖沙咀にある4階建てアパートの2階に住んでいた。父親は職人だったのか商売柄か、ほとんど家にいてトニーと妹の世話をし、母親が外に働きに出ていた。夫婦のあり方は当時としては変則的だったが、60年代〜70年代前半の香港庶民としては平均的な家庭だった。地域では名門の部類に入る、外国人も通うミッション系の英文幼稚園(英語で世話をする幼稚園)にも通っている。トニーという英語名は、幼稚園で名づけられたのかもしれない。IDカードにも記された立派な”本名”である。
 当時のトニーは幼稚園で「天使」と「悪魔」について教えられ、天使は雲の上でブランコ遊びをしていて、悪魔は角を生やし黒いしっぽがあるものだと思っていたらしい。当時植えつけられた敬虔な信仰心は、40代になっても彼のなかに息づいているようだ。

 一家の長男の誕生は、母の8人の兄弟姉妹にも大きな喜びだった。彼らは順番に、物心ついたばかりのトニーを連れて、60年代最大の娯楽・映画を見に行く。母のごひいきは、当時世界中で絶大な人気を誇っていたアラン・ドロンだ。他の叔父叔母は警察とマフィアの抗争劇やホラーなどの洋画、粤劇と呼ばれる広東オペラを題材にした中国語映画やカンフー映画などを幼いトニーに見せ、一緒に楽しんだ。トニーは喜劇映画が好きで、今でも覚えているのが「バンパイア・キラー」という作品だという。
 叔父のなかには、貨物船の通信員として働いている人もいた。それで幼いトニーはモールス信号のことも聞き知っていたそうだ。

 アパートの1階は小さな雑貨店。こづかいは少ししかもらえなかったが、小学校から帰って来ると雑貨店の主がよくご馳走してくれたそうだ。トニーは元気に近所の子供たちと遊びまわった。1週間分のこづかいをまとめてもらっても、友だちと一緒に果物などの買い食いをしてすぐに使ってしまい「マミー、お金落としちゃった」と嘘をついてもらい直したこともあるという。

 頭がよくて大人の前ではおとなしかったが、実は腕白だったトニー。6歳のある日、母親が妹を連れてかトニーに黙って外出し、彼は1人で留守番するはめになってしまった。癇癪を起こしたトニーは、母親のハイヒールや革のハンドバッグを、ありったけ窓から道端へと投げ落としてしまったそうだ。戻った母親が道路に散らばる自分の靴やバッグを見て、どんなに呆れ、怒り、叩いて叱りつけたことか。(男の子って、まったくもう…)

 英文小学には小3まで通った。トニーが学校内で最もよく知っていた場所は校長室だった。というのも、彼は毎週のように同級生と示し合わせてカンニングし、毎日のように同級生と取っ組み合って、校長室に呼び出されていたからだ。香港では、児童が何か事件を起こすとすぐに校長が父か母を呼び出し、親子ともども「あなたのお子さんはこのままでは卒業させられませんよ。もしも来年もこの調子なら、落第になりますからそのおつもりで」とお説教するのが恒例だ。ひどいときには一日おきぐらいに仕事中に呼び出しを食らう母親はたまったものではないが、おかげですっかり校長先生と顔なじみになったともいう。
  おそらくトニーは外で働く母親が恋しく、母親の顔を見たくて、かまってほしくてわざと喧嘩を繰り返していたんではないだろうか。

 トニーがプラモデル作りを始めたのは、6歳頃のこと。プラモデルを作れないときは、時間さえあればテレビを夢中で見ていた。外出しなければならないときは、テレビを背負って出たかったぐらいだという。TVBが連続テレビドラマを放送し始めたのが1967年。トニーの世代前後が、ちょうど香港におけるテレビっ子の出現にあたる。
  トニーはまた、夏になるとパンツ1枚でベランダに出て、駆け回って遊んでいたという。「あの種の”涼しさ”は、確かにやみつきになるものだったね」と、成人後に当時を回想したトニーは、恥ずかしそうに言ったという。

 子どもの頃、トニーは一度だけ幽霊を目撃したことがある。その頃、トニーの母も母の妹もホラー映画が好きで、必ず用心棒代わりに?幼いトニーを伴って恐怖映画を見に行っていた。当時トニーらはかなり大きな家に住んでいて、トニーは個室を与えられていた。トニーの部屋の隣に両親の寝室があり、また2つも部屋があってトイレへはかなり遠かった。トニーはトイレに行きたくなると、いつも走って行かなければならなかった。
 トニーはママにせがみ、幼児用おまるを部屋の戸口に置いてもらうことにした。ある日の夜、トニーが用を足していると、なぜか白い布が目の前に見えた。トニーの部屋にはすだれしかなく、布で仕切っているわけではない。布をよく見ると、それは中国人の老人が着るような長いチーパオ旗袍だったのだ。
 もっと下を見ると、2つの黒い功夫靴が見えた。幼いトニーは(こ、これは古代のお友だち…)と気づいたものの、恐ろしさのあまり、顔を上げることができなかった。トニーはすぐに駆け戻り、パジャマのズボンもはかずにベッドに飛び込み、布団を被って寝てしまったという(^_^;) その後数日、トニーは妹にもその体験が話せず、妹も同じ体験をしたかどうか聞くことができなかった。
 夜になると、トニーはいつも父親が菜切り包丁を持って外に出て行く気配を悟っていた。父は「何かあっても、子どもたちを怖がらせてはいけないと思ったんだ」と話したという。結局、その広い家をトニー一家は引っ越すことになったのだった。

 父親が博打と酒好きでさえなければ、一家は当時の一般庶民として普通の暮らしが出来たはずだ。だが父親の悪癖は直らず、日がな一日酒に溺れ、博打に出かける。家計は苦しくなる一方だった。母親は口うるさく夫をいさめ、毎晩口喧嘩が絶えなかった。まだ10歳に満たないトニーはただ、部屋で泣くことしかできなかった。

 ある夜の記憶を、トニーはCD「従前…以後」(95)の「一切是個夢(全ては一つの夢)」でこうモノローグする。

 「僕はあの夜、ダディとマミーが隣の部屋で言い争う声で目を覚まされた。僕はとても怖かった。なぜならマミーの泣き声が聞こえてきたからだ。マミーはずっと、ダディに「お金を持って行かないで、それは子供たちにご飯を食べさせるお金なのよ」と叫んでいた。僕のダディはひどく酔っているようだった。それに、母を殴っているようでもあった。僕は頭まで布団をしっかりと被っていた。一筋、また一筋と涙が流れた。僕の妹は2段ベッドの上にいるはずだったが、僕は妹の様子を見る勇気さえなかった。僕はいまでも、あの晩の、自分の部屋の錆びついた窓の鉄枠の匂いを覚えている。……そのとき僕は、支えてくれる何かがほしかったんだ…」


 トニーが子供の頃、いちばん怖かったのは幽霊でもギャングでもなく、人間の怒鳴り声や罵り声だったという。いったい何がトニーパパを博打とアルコール依存症に逃げ、家族を捨てて顧みないほど追い詰めたのか。暴動が多発するすさんだ世情か、貧困か、気の弱さか、夫婦の性格の不一致か。両親はなぜ自分たちが罵り合うのか、幼いトニーに説明することができなかった。

 「慢性ショック」と呼ばれる家庭内の騒動(たとえば夫婦喧嘩)では、子どもは不穏な音に驚かされ、次いでケガをした片親や壊された家具を目にして不安に駆られる。なのに何が、なぜ起こったかは説明されない…このような体験は、子どもをいわゆるアダルト・チルドレン(AC)にしてしまうと言われる。子どもに不要な罪悪感を負わせてしまうのだ。こうした体験の積み重ねは、子どもたちに聞いた音を聞かなかったことにし、見たものを見なかったことにする。いわゆる否認の機制が働く。蓄積された不安は、子どもの人格の統合を妨げ、彼らの人生の一部を意識から排除し、感情を麻痺させてしまい、「生きる喜び」も一緒に削り取られてしまうという。中には対人緊張が強いため、対人関係や職場から引きこもったりする者もいる…。

 後にトニーは当時の自分を振り返ってこう言う。もしもあのときにスクール・カウンセラーのような人に罹って、悩みを全部吐き出せていたら、自分は精神的外傷を癒せて明るくなれ、その後の人生で容易に人と打ち解けられていたかもしれないと。もっとも、その場合トニーの演技の才能が花開いたかどうかは、何ともいえないことだが…。

 トニーが初めてアルコールを口にしたのは、8歳ごろのこと。母親が何を考えたのか、ラム酒入りのコーラを彼に飲ませたのだ。
 「甘くて、飲んだら胃がぽっと温まって、飲んだ後にハイな気分になるのをとても楽しめた。僕の飲酒人生は、あれから始まったんだ」とトニーは後に振り返る。

トニーママとベビートニーでしゅ。
三輪車乗ってましゅ。
タラちゃん刈りも可愛いでしゅね。
ブリっ子トニー。ボク可愛い?
おしゃまな面もありました

 

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